日本文学の哲学的考察
昨晩は、圧倒的な眠気に負け、ついうとうと眠りに落ちてしまった。
こと眠気についていえば、抗う心がほんとうに存在していたのかどうか疑わしい。
ほんとうに抵抗したいのであれば、何かしら工夫をするはずだ。
瞼にセロテープを貼る。
Deep Purpleをヘッドフォンで大音量で聴く。
ハードスクワッドをする。
などなど。
どれ一つ試していない。
ただただ心の中で、眠ちゃダメだ、寝ちゃダメだ、ドントスリープ、、、と呟きながら布団を被っているわけだから矛盾している。
そして、今日もこんなことを書きながらどこかで寝ちゃおうかなと思っている自分を否定はできない。zzzz...
あれ、タイトルは「文学」。
日々のくだらない気づきを綴っているメモ帳を見返したところ「今日は文学について!」って記してあったからだけども、書き始めた側から昨晩の圧倒的強烈的貪欲的な眠気のことを考えていた。
多分、今この瞬間眠いのだろう。
とはいえ文学、文学、日本文学、谷崎潤一郎・・・・・
結論、早寝は健康に良い。
眠気
昨日はまたもやオンライン飲みで、いわゆる例のパターン。
またやり直し...
そして今眠気がすごい。
眠いときは何をやってもダメなので、寝てしまう方向で諸々の予定のリスケを検討している。
ああ眠気がすごい...
今、世界を回るものは?
「『地球が太陽のまわりをまわる』のではなく、『金が世界中をまわる』ことで成立するのが、近代社会なのである」
<<引用 海賊と資本主義 P36 >>
と、ぺーター・スローターダイクというドイツの哲学者が2005年に自身の著書で資本主義について言及したということだけども、どうやら何かを付け足さなくてはならない状況になってきたようだ。
そう、今や「ウィルスが世界をまわる」ことでその資本軸の社会を変えようとしている。
諸説あれどおよそ200年かけて成立させてきた「資本主義社会」をCOVID_19がいとも簡単にそれもたったの数ヶ月で。
その「変化」についてもまぁ世間ではまことしやかに様々なことが言われている。
ただ、これまでのようにメディアのメッセージに乗って気楽な消費者としてフォロワー的に振る舞うということではなく、僕も含め、わりと多くの人々が自分自身やより身近な環境というものを結構深く見つめ直しているのではないだろうか。
少なくともそいういう契機になっているのは間違いではないだろう。
そういう意味で「個人から起こる変化」により着目してみたいと思っていたりする。
まずは自分の心に忠実に。
詩学とストックイメージ
アリストテレスの「詩学」でもっとも記憶に残っているフレーズがある。
「普遍的な筋書きだけに属することは以上であり、それ以外は場面である」
そして、今読んでいる例の「本を読む本」で表現は異なるが再び引用されているのを見かけた。
「これがプロットの真髄だ、残りはエピソードである」
<<引用 「本を読む本」P92>>
このフレーズの前に、アリストテレスは長大な叙事詩である「オデュッセイア」の要約をほんの数行で示している。
つまり筋書き=プロットはその物語がどんなに長大複雑であってもほんの数行にまとめられる(べき)ものだと指摘していることになる。
改めて、そして久しぶりに目にしたこのフレーズは、昨年出会ったマイ知的ヒーローであるボードリヤールのいうところの
消費者は自分で自由に望みかつ選んだつもりで他人と異なる行動をするが、この行動が差異化の強制やある種のコードへの服従だとは思ってもいない。
<<引用 「消費社会の神話と構造」P80>>
に、すーっとリンクした。つまり「差異」はエピソードであり場面であるし、筋書き(プロット)はコードに当てはまるなと。
そして、これをストックイメージのクリエイティブ的視点で捉え直してみると、「普遍的テーマ」には核となる枠組みが何パターンかあって、あとはバリエーション(差異、場面、エピソード)の組み合わせで構成されているのだともいえないことはない。
つまり、市場に受け入れられるクリエイティブを継続的に生み出していく為には、まずこのベースとなる枠組みをいかに掌握することができるか、にかかっているといえる。まぁこれまでの十数年間、その見極めに注力してきたわけだけども。
しかし!
しかし!
いまwith/after COVID19時代を迎えて、その「枠組み=コード」自体にかつてない変化が訪れようとしているのではないか。オセロの角をひっくり返す事ができてしまうようなゲームチェンジが。
変化は機会。チェンジはチャンス!
はい、単に言い換えただけだけだけども、、、でもほんとにそう思うのだよね。
それもさらに×1000単位なより巨視的な枠組みかつ時間軸で俯瞰すれば「差異の循環に過ぎない」と見做されるのかもしれないけれど・・・・
自分のTwitterも自分なりのルーティン化へ。
せっかくだから、コロナ禍によって変わってくるだろうイメージの世界を淡々と拾ってみようかな。
これ、実は様々な思いがあるのだけど、例によってその意味や目的を考えすぎると続かない性分だということは自分がよーくわかっている。
なのでまずは3ヶ月ほど、ひたすら見つけ出したビジュアル事例関連で100ツイート程度を、あまり考えず特に喜びもせずそれほど悲しみもせずましてや悩みもせずただただひたすら自分に向かってやってみる。
その辺で、もし改善しようとする余地が生まれるようであれば、次に何かできるのかできないのか立ち止まって考えてみることにする。
無意味の総量を増やす、そんな感覚で。
ある日曜日
午前中、約10km走った。2日ぶり。
爽快だった、と言いたいところだけどちょっと疲れた。終日だるだる。少々ペースダウンしよう。
多少の抑揚あれどもほぼほぼ淡々と「Stay at home(≒引きこもり)」の話。大正8年の作品だけどもそういう意味でタイムリーといえばタイムリー。
ともかく家の内外に在る「自然、あるいは心象風景」の多彩な捕まえ方に刺激を受けた。引きこもっているからこその身近な物事そして内面への敏感さの際立ち、とでも言おうか。
日々を単調にしてしまうかどうかは観察者的過ごし方ができるかどうかかなと思った。たとえどんなに忙しくしていても、観察者的視点を獲得できないでいる日々というのは、それは単に慌ただしく過ぎ去ってしまっているだけのような気もする。
そして観察には記述が伴うとさらに充実するだろう。
このブログもそんなところに向かっていけると良いのだけども、まだまだ自信持てない。
そういえばこちらの本、物語自体は結末に向かって観察者的視点から徐々に内面の奥深くに沈みこんでいくという展開。
「おお、薔薇、汝病めり!」
と。汝とは薔薇なのか、それとも....