詩学とストックイメージ
アリストテレスの「詩学」でもっとも記憶に残っているフレーズがある。
「普遍的な筋書きだけに属することは以上であり、それ以外は場面である」
そして、今読んでいる例の「本を読む本」で表現は異なるが再び引用されているのを見かけた。
「これがプロットの真髄だ、残りはエピソードである」
<<引用 「本を読む本」P92>>
このフレーズの前に、アリストテレスは長大な叙事詩である「オデュッセイア」の要約をほんの数行で示している。
つまり筋書き=プロットはその物語がどんなに長大複雑であってもほんの数行にまとめられる(べき)ものだと指摘していることになる。
改めて、そして久しぶりに目にしたこのフレーズは、昨年出会ったマイ知的ヒーローであるボードリヤールのいうところの
消費者は自分で自由に望みかつ選んだつもりで他人と異なる行動をするが、この行動が差異化の強制やある種のコードへの服従だとは思ってもいない。
<<引用 「消費社会の神話と構造」P80>>
に、すーっとリンクした。つまり「差異」はエピソードであり場面であるし、筋書き(プロット)はコードに当てはまるなと。
そして、これをストックイメージのクリエイティブ的視点で捉え直してみると、「普遍的テーマ」には核となる枠組みが何パターンかあって、あとはバリエーション(差異、場面、エピソード)の組み合わせで構成されているのだともいえないことはない。
つまり、市場に受け入れられるクリエイティブを継続的に生み出していく為には、まずこのベースとなる枠組みをいかに掌握することができるか、にかかっているといえる。まぁこれまでの十数年間、その見極めに注力してきたわけだけども。
しかし!
しかし!
いまwith/after COVID19時代を迎えて、その「枠組み=コード」自体にかつてない変化が訪れようとしているのではないか。オセロの角をひっくり返す事ができてしまうようなゲームチェンジが。
変化は機会。チェンジはチャンス!
はい、単に言い換えただけだけだけども、、、でもほんとにそう思うのだよね。
それもさらに×1000単位なより巨視的な枠組みかつ時間軸で俯瞰すれば「差異の循環に過ぎない」と見做されるのかもしれないけれど・・・・