Welcome to the desert of the real.

visible, audible, tangible and simulacre....

「物の体系」 (著)ジャン・ボードリヤール

昨年から、社会学者・思想家のジャン・ボードリヤールに嵌っています。

ここ十数年、僕が仕事として向き合っているストックイメージ(写真・イラスト・動画など)という概念は、広告(SNSマーケ含む)ビジュアルと同じカテゴリーに属しているとみられがちです。しかしそれらとはマーケットとの関わり方に根本的な違いがあって、いや、むしろそれらの領域を内包できるのではないか、という思いが日に日に増しています。その部分が何かはまだうまく言語化できていないのですけれども、この思想家の「消費論及び周辺」が何らかしらのヒントをもたらしてくれるような気がしていまして、とにかく離れられなくなっています。

しばらくはボードリヤールとその周辺の研究を通して探求を続けていこうと思います。

さて、本書、「物の体系」

 

僕の中の従来の「消費」という考え方に新たな視点を吹き込んでくれたという意味で非常に重要な一冊となりました。

イメージビジネスに携わっていながら、確かにマーケティングや競争の理論やあらゆる手法を経済学やビジネス理論方面から学びはしますが、「消費」あるいは「もの」とは何かという根本部分に社会論的な角度から向き合うことがほとんどなかったという気づきがありました。

まずは本書の目指すことろを序論から抜粋・引用します。

ここで問題にされるのは、機能で規定される物、分析に好都合になるように物を区分できる分類方法で規定される物ではなく、人間が物と関わるプロセスと、その結果生じてくる人間の行動と関係の体系としての性質である。

 つまり、生物の分類のようなカタログ的なものではなく、物と消費と人間との関係性を体系化してみようというなかなか難易度の高い分野なのですね。

物は、全てが全てスマートなマーケティングの結果「必要」だとされたから生まれてくるものでもありません。それどころか、現代はむしろ「物の過剰」な状態です。それでもなぜ消費が無くならないのでしょうか。それはつまり消費自体がもはや欲求や必要の充足の為ではなく、何か他の要因によって突き動かされているというのです。ではその要因は何かというとそれはズバリ「欠乏」だと結論付けています。

私たちは、常に「欠乏状態」といえるのです。物と人間の関係性が続く限りこの「欠乏」は無くならないのかもしれません。つまりその前提が続く限り消費も永遠に止まることもないようにみえます。

他にもいくつか<引用・抜粋・コメント>しておきます。(引用・コメント内の太字化はブログ筆者)

色の世界は価値の世界と対立し、<シック>なことは、つねに外見を犠牲にして存在を生かすことである。黒・白・灰色といった色の絶対零度は、それもまた威厳・抑圧・道徳的地位のパラディクムである。

ビジュアルクリエイティブにおける色使いの根拠として気に留めておきたいところです。

極限では、全ての古いものが美しいのは、単にそれが長い間保存されていて、それによって以前の生活の記号になっているからにすぎない。現在の我々の支配の記号である機能する物と、過去の支配の記号である神話的な物とを併置するのは、我々の起源についての不安な好奇心である。

ここでいう古さとは時間軸的にはかなり昔を指しますが、物を記号として捉えるということのイメージが湧きやすい箇所でした

人間が物のなかに見出すのは、生き延びる保証ではなく、サイクルになって制御された仕方で、自分の存在のプロセスをこれからも続けて生きる保証、このようにして不可逆的なできごとがかけている現実の存在を象徴的に超越する保証である。

生きていても良いのだという保証を無意識の中に物の体系の中に見出しているのだとすると、消費というのは単にお金を出して物を買う、サービスを受ける、ということではすまされませんね。

・・・巨匠の絵の収集と葉巻の帯の収集とが異なっていることは明らかである。まず第一に、収集の概念が蓄積の概念と異なることを認めなくてはならない。(ラテン語のcollirereは、選んで集めるという意味である。)下位の段階は、物質を蓄積する段階である。古新聞の積み重ね。食料品のストック・・・・その次には、同じ物をシリーズとして集めること。収集は文化の方向に現れる。収集は異なった物を目指す。それらの物にはしばしば交換価値があり、また、保存・交通・社会儀礼・展示のための<物>でもあり、おそらく利益の源泉でさえある。 

その言葉の意味において、この本の中で今の自分に一番ささった部分です。収集(Collective)と蓄積(Stock)との違いについてはあまり考えたことのない概念でした。向かうべきは、collective imageなのでしょうか....

・・・しかし、物は時には人間の実用の管理から免れても、創造的なものから免れないことを確認しておこう。創造的なもののあり方は、技術の発達の仕方に従う。そして、技術効果の未来でのあり方は、それもまた新たな創造的なものを喚起するだろう。

まさにAIによる画像生成の分野であったり。もうこの辺は「実用」のレベルにきていると考えられても差し支えない状況ですが、つまりここで大事なのはAIによる画像生成がもたらす先にどのような新たな創造的喚起がやってくるのか?その辺に思考を巡らせておく必要があるのかもしれません。

・・・他の自動車ではなく、この自動車を選ぶということが、おそらくあなたを人間化する。しかし、特に選ぶという事実が、経済秩序の全体のなかにあなたを位置付ける。<他の人たちからあなたを目立つようにするために或る物を選ぶという事実だけで、それ自体が社会奉仕で或る>(S・ミル)。物を増加させることによって、社会はそれらのものに選択の能力を与え・・・

私たちは選択しているようで選択させられているようです。物が増加すればするほど過剰感を感じるよりも先に「選択」しなければという感覚が先行しているのかもしれません。

・・・それぞれの種類の物について具体的なモデルがあることは必ずしも必要ではなく、モデルのない物もある。いつも積極的に体験される微細な差異は、シリーズを全方に反映させ、潜在的にしか存在できないモデルへの渇望を生むのに十分である。

 原型である「モデル」と派生である「シリーズ」。モデルはいわゆる観念的な対象であって、つまり私たちはモデルに憧れながら派生的なシリーズにに内包されている「記号としての差異」を消費しているということになります。観念であるモデルは時代に合わせてどんどん前方に変化し、シリーズが派生的に後を追うという構図は様々な分野に見られ、そして循環しています。(自動車の売り方などはわかりやすそうです)

 ・・・もしも消費が抑えきれないものに見えるならば、それはまさに消費が(ある限界値を越えると)、必要の満足とも、現実原則とも無関係な、完全な観念論的行為だからである。

まさに消費の本質はこれなのかもしれません。観念論はここでは社会の中での他者との関係性であったり、自分で自分を位置付けることであったり。ポイントは「ある限界値を越えると」にあるようですが。

 

「物の体系」と題されていますが、副題には「記号の消費」とあります。読み進めているうちに「体系」という言葉から受ける印象は何か骨格のある具体的なイメージを受けますが、英語のタイトルの「System of object」つまり「物のシステム」として捉える方が物の体系と記号の消費の関係がしっくりする気がしました。

翻訳の問題なのか、言葉遣いが難しいのですが、経済学的アプローチではない側面から消費というものを捉える試みのきっかけとなる一冊になると思います。