CURRENTS BLOG

Audible,Visible,Tangible - いまのところ極めて曖昧に

アジアンスタイル

昨日のツイートを整理しておきます。

<グローバリズムの円心とは?>

現在、世界で言われているあれこれは、僕個人としては資本主義の欠陥というよりも「グローバリズム」の問題と捉えています。

そのグローバリズムの辿ってきたプロセスを俯瞰してみても、それはやはり欧米中心に広まってきたシステムと言えます。

つまり、あくまでも中心地である欧米的市場の利益最大化を達成していく為のシステムであると考えられます。

なので、準備が整っていなかった周辺地域は、先行する巨大市場を背景とした中心(欧米)の力に飲み込まれる形で同化させられてきたのです。

欧米以外の文化圏に属する国々や人々にとって、自分たち固有のやり方で太刀打ちしていくにはそれはあまりにも強力すぎました。

結果として教育カリキュラムの欧米化や時には欧米的サクセスストーリーに洗脳させられて、いつの間にか我先にとごぞってそのスタイルを取り入れることになりました。

今では片棒どころか、優秀と言われている人々のほとんどは欧米的グローバリズムのいわば宣教師の役割を担っています。もちろん、主な地域の現代社会では、ごく自然に洋服を着るような感覚で、あまりにもあたり前すぎてそのような意識は微塵もありはしないでしょうけれど。

しかし、そう考えると、グローバリズムというシステムのすごさを改めて認めざるを得ません。

一方、なぜこんなにも強固なシステムが欧米から始まったのか、という疑問だって湧いてきます。なぜアジア圏からではなかったのか。

諸説あるようですが、その辺りの動きを学びとることができれば、この流れを逆流されられることも不可能ではない筈です。

まだ、答えは出ていませんし、もし答えが出ているのなら今頃僕は大変な大金持ちです。

歴史的にはこのシステムを変えようとして暴れてきた人々もいたようですが、それらも大義の名の下木っ端微塵に潰されました。そうです、「グローバリズム」は大義なのです。 

<アジアンミックススタイル>

だけれども、そんな資本主義を研究している中で、僕が仕事で携わっている「ビジュアルコンテンツ」分野においては、むしろこのシステムをうまく利用することで一定規模のシフトチェンジを起こせるのではないだろうか、という思いが膨らんでいます。

なぜなら、世界のあり方の表象化の手段としてのビジュアル表現は、どちら側に向かうにせよあらゆる価値観の混在化が非常に早いスピードで進んでいて(実はこの価値観の混在化はグローバリズムが産んだもう一つの側面でもありますが)、非常に混沌としてきているからです。

もはや欧米スタイル一辺倒では市場の支持を得られる時代ではないのです。

したがって、そのような状況下では、我々アジア勢ならではの感性ミックスが、これまで欧米スタイル一辺倒だったものから新しい時代のスタイルへの新勢力になり得るし、少なくとも従来の中心位置の揺さぶりを主導できる可能性を持っているという仮説立ては、決して無理な話ではありません。

<メタファーとしてのGAFA>

そして、そのコンテンツの流通は、強力なグローバリズムのシステムを活用すれば良いのです。

ただ、ちょっとばかりコードを変更して流れを逆流させる仕様変更は必要ですけれど。

 

 

 

 

 

 

隣接

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見つめる鍋は煮えない。

 

本筋に、ど正面から向き合うことは悪いことでは無いと思う。

寧ろ、血反吐を吐くまでとことん向き合うべきだという信念を持っている、と最近はようやく言えるようになってきたかも知れないくらい。

しかし、だからといって盲目的に直球一本やりでは偏りが出て来るもの。

多少の緩急が必要だ。つまり客観性。

その緩急とは何かと考えていて、本筋と極めて隣接する分野に目を向けてみようかなと。

僕の場合の本筋は事業としてのストックフォトクリエイティブなので、その隣接分野をやはり写真つながりということで、ストリートフォトグラフィーに設定してみた。

何故か?、は追々書いていくが、まずは習うより慣れろ。能書きより実行。

バンバン写真撮ってInstagramに上げる日々を送っている。

それがとても楽しいのだ。サーフィン以外の趣味としてこんなに夢中になれる分野は初めてかも。

色々な意味で、幸運である。

 

視点

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出張中は、カメラを持ってあちこちぶらぶらする機会を作るのは中々難しいものです。

ですが、今いるその場その時で、何か視点を探すことは出来ます。

自分なりに気になる視点。

でもこれは常に「気にしている」状態である必要があります。

そうじゃないと全ての存在が無意識に吸収されてしまいます。

気に留めないと気付けない。そこにあるのに気付けない。存在自体が無なんです。

勿体無いですよね。

だから例えばまずはホテルの部屋に入った時に、ここでは何が見えるかな、何が存在しているのかな、と考えるのを習慣にしています。。。というかそういう体質なんです。

習慣は本来の嗜好と結び付けてこそなんではないかな。

眠いです。

 

 

モノクロ写真

 

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時々モノクロで撮る。

いや、正直に言うと、ふつうにカラーで撮ってモノクロに変換するという行為をしていた。

つまり、いわゆる隠していたのだ。

なんだか写り込んだ変なものを隠してそれっぽく見せる為の手段として。

でもそうじゃないのでしょう?本質はそうじゃないのでしょう?

ちなみにFan Hoという写真家が大好きで彼のモノクロ写真をよく眺めている。月並みだけど呼吸をするように撮っていたのだろうなと思わされる。あれは何かを隠す手段では絶対にない。

というわけで、モノクロモードで撮りはじめています。

 

 

 

ざわざわ

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僕の住んでいる街には寺社仏閣が点在している。

そこには目的がないから普段は意識的に行くことはほとんどない。

だけど昨日、ふと行ってみようという気になった。このところあれこれものを考えることが多く、ざわざわと気持ちが落ちたかない日々が続いていたからなのだけれど、少しは静まるかなくらいの安易な動機で。

好きなサーフィンやランニングなどスポーツで一瞬吹き飛ぶのだけど、それで高まった活性が元の位置に収まるや否や、そのざわざわは再び霧のように立ち上がってくる。霧の発生は無理やりは止められないものな。

というわけで、東慶寺を選んでみた。

11世紀後半の開山以来明治期まで尼寺であったと言われるお寺。女性のための離婚調停の役割もあったのだと。

そういうコンセプトは続けておけばよかったのにとか無責任に考えながら、形だけだけど手を合わせてきた。お賽銭も気持ちだけ。

お寺の力を借りて自分の内面をどうにかするつもりは毛頭ないのだけど、生活にプチ変化を与えるという意味で、日常とは異なる空間に身置いてみるのは一手かも知れない。

と、どうだろう!あのイライラが嘘のように消え去った!!!神さま、いやこの場合は仏様ありがとう!

....なんてことはないのだけど、まぁ、短略的に効果を求めても返ってストレスの元。

何にせよそれなりに時間がかかるもの。

 

気長に気長に。

 

 

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中学生時代に真っ白な秋田犬のゴローを亡くして以来、ずっと犬から遠ざかっている。

だけど次に生き物を飼うとしても犬以外の選択肢はあり得ないと思っていた。あり得ないはずだった。

ところが、である。

最近は猫ちゃんから目が離せないのだ。猫ってその距離感が良いのかも。

それにしてもこの子、可愛くないですか?

 

友達のお店

 

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先日、母と甥と僕ら家族で新宿でランチをした。久しぶりだった。

その帰りに高校時代の友人がオーナーの喫茶店に寄ってきた。

中々行けなかったので良かった。

残念ながら本人は休みだったので会えなかったけれど、爽やかなお兄さんがコーヒーを入れてくれた。

サイフォンでじっくり作られたコーヒーは本当に美味しかった。

久しぶりに会った母や甥とランチで赤ワインをしこたま楽しんできたので、シメの一杯にもってこいだった。

大勢でカウンターを占拠して少し迷惑だったかな?